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Five Reasons To Adopt Environmental Design

by Susannah Hagan, Harvard Design Magazine, Spring/Summer 2003, Number 18.

環境デザインを採択する 5つの理由  スザンナ・ハーゲン (訳/奥田順二)

 物質文化の深遠で広範な再評価は、最初にオタクとヒッピーによって乗っ取られ、政治学、地理学、文化的理論、哲学、経済学、芸術、生命科学の分野の中で展開されており、そしてついに建築にまで及んできた。しかし、建築に含まれる多くのものが、この再評価との関与を拒絶している。これらにとって、環境論は厄介なものなのである。環境論には、境界線、風説、スタイルといったものはない。独善的なものや悪趣味に施されたものが住み着いている。その分析はあまりにも単純で、説得力に乏しく、物理的な曖昧で、形而上学の不合理である。環境論は、才能に恵まれないものの逃避場所であり、倫理を美学と差し替え、その場を切り抜けている。

 これらの非難がこれまでは真実だとしても、もはやそうではない。その他、上記のカリカチュア以上に幅広い情報に基づく環境論の記載が目立ち始めており、これまでアバンギャルドを奮い立たせてきた知的な妄想と同じくらいに複雑で、厳しく、微妙に変化している。建築の中では、環境デザインは、単に実際的な問題の実際的な解決ではない。環境論の遠隔的な影響力の複雑なヒントである。環境論自体は、ポストモダンの過酷な試練を経験したモダニストの超話術である。その目的は普遍的であるが、その意味は個々の状況に対応している(実際のところ隷属している)。

 環境論の普遍的正当性に対する要求は、物理的な維持システム(つまり自然)の中に含まれている具体化された人間に基礎を置いている、我々はこの状況を共有しているので、いかなる文化的な相違があろうとも、物理的に我々を支えているものを保護することに等しい義務を負っているのである。これはやむを得ないことであるが、自然が文化的構成体であることに多くのものが抗議するかもしれない。「オゾン層に穴があるのは言葉ではない。」我々はsignifier(意味作用)のレベルで脱構築的な洞察を磨いているにもかかわらず、「実際」のものは汚染し品位を落とし続けている。」と英国の哲学者ケイト・ソパーは書いている1。この普遍的な含蓄に対する相関は、詳細な事象は普遍性と同じくらい重要であるという認識であり、全体は高度に識別された部分、すなわち、文化的に、また物質的に識別された部分から構成されるという認識である。マルクスに同意した我々の義務は、「彼または彼女のニーズに従い各々へ、彼または彼女の自然の使用(あるいは濫用)に従い各々から」という形を取る。” ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックはモダニズムは、環境論をモダニズムの新しい段階、「ポスト帝国」として、彼の言葉でいえば「再帰モダニズム」とみなしている。「モダニティはその対照物―克服すべき伝統、征服すべき自然拘束―の役割を引き継いできた。」2

 構築された環境(全人為的温暖化ガスの50%の原因となる)において、明らかにこの「克服」をリードするに値するのは建築家である。建築の直接的で物理的なインパクトはごくわずかであるが、その文化的なインパクトは、建築業者の中では不釣合いなほど重要で、その外部でも重要性が増している。実際のところ、学校や実践の場で環境に挑戦すべき理由は、少なくとも5つある。

1:知的な理由

 自然の働きや組織が我々の物質文化よりもはるかに勝っているという考えは、環境論者にも環境的な建築家にも支持されていない。モダン・ムーブメントの間、モデルとしての自然が大いなるアンビバレンスをもって眺められていたが、その困苦の後、我々はより深い理解に基づいて新たな自然崇拝に戻ってきた。これらはとてもありそうもない場所で見つけることができる。最も深遠でわかりにくい文化的注釈をもつ寺院や高い建築のもっとも高いところで。事象の魅力に関するサンフォード・クインターの言葉はこうである。「記号論的構造は二進法で、階層的で、閉ざされている・・・事象は文字通り特性、非対称性、異質性、特異性によって穴だらけにされている・・・事象は手短に言えば、行動的で動的で創造的である。」3それは自然の特殊性やダイナミズムであり―繰り返すことなく繰り返し、発展するべく受容力、すなわち機械的な大量生産を避けてきた受容力―物質的な文化の中で(最も劇的にはバイオテクノロジーの中で)今や我々の模倣する能力の範囲内にある。これらが我々の手の届く範囲に近づけば近づくほど、ある建築家は建築の因習的な境界でますます気短になる。「正確で均整の取れた固定された静的な幾何学は、表面的には建築にとって自然であるが、具体的な問題や決定不能な結果について記述することができない。・・・正確な幾何学の不適切な均衡状態を破るのではなく、・・・建築は不定形な問題の適切な記述を不正確であるが的確な幾何学によって始めなければならない。」4このエネルギッシュな思考の中では、目的はもっぱら形式的なものに思われる。目的が達成されるまで、誰もそれを非難できない。もし建築が表現に関係しており、もし表現されるべきものが変化していくなら、次に建築がその「表現」を変えることは卓越した意味をもつ。もちろん、すでにこれに取り組んだものもいる。1980年代に、例えばピーター・アイゼンマンは、すでに形を生成するために地質学的現象を用い実験していた。5

 目下新しいことは、よりたやすく表現される静的な様相よりむしろ、動的な自然の様相を形式的に表現しようとする願望である。いずれかがこの問題の論点を巧みに避けている。もしコンピューターとライフサイエンスが従来判読不能な自然の作用を解き明かす方法に強い関心があるなら、なぜそれらの「見解」は十分なのか?建築が不完全な絵を表現する方法だけでなく、不完全な絵を「規定する」方法に対してももどかしさがないのはなぜか?我々が見ることができる科学とそれらに依存する産業は、またしても建築の先を行き、自然のプロセスと絶えずより深く密接に融合させる。唯一追いついて行こうとしている建築の実践は、環境デザインである。

2:実践的な理由

新しい生成方法および形式の源として新しい自然のモデルに目を向ける人々と、建物を建設し運営する新しい方法の源としてそれに目を向ける人々の間には、非常に大きな隔たりがある。前者の知的な華麗さは後者に見当たらない。後者の知的な一貫性は前者には見当たらない。トーマス・ヘルツォーグあるいはグレン・マーカットの書を読むことは、クインターやリンの書を読むことに比べると全く刺激的ではないが、彼らの建築を解釈することは刺激的でないとも限らない。環境従事者の挑発は、彼らの建築が行っていることにあり、その議論にあるのではない。しかし、建築の形式は、配置や材料と同様にその環境上の性能を決める鍵となる。もっと詳細なレベルでは、環境デザインの備品や家具もまた重要である。光電池やソーラーパネル(設置するか否か)、光棚、光チューブ、建築的な遮光装置、緩衝地帯、植栽、ハイブリッドHVACシステム―部分的に機械的で部分的に自然の―換気筒など。

 この環境上の要素を強烈に誇示している建築家もいるが(例えば英国のエドワード・カリナンやフィールデン、クレッグ、ブラッドリ、イタリアのマリオ・クシネーラ、そしてマレーシアのハムザとヤン)、大半の建築家はそうではない。

建築的に言うと、最も興味深い実践者とは、どんな環境的機能主義からも抜け出す人で、オランダのメカノー、ドイツのソイヤーブルヒとハットン、そしてアルソップとストーマー、フランスのジョルダ、ペローダン、エドワード・フランシオ(エネルギー効率というよりむしろイメージに興味を引く)などの建築家である。戦略と建築は異なった文化的、環境的状況に対応するので、企業間で、また時には企業内でも、その範囲は非常に幅広い。その論理的な結論へ環境上の思考に従うデザイナーもいれば、そうでない者もいる。ある者は、時にはそうであり、時にはそうではない。

 ほんの少し行ってしまった建築家とこの方向へずっと先まで行ってしまった建築家の差は顕著である。おそらく、モダニズムの見直しに着手した最も著名な建築家は、キャサリン・スレッサー、リチャード・ロジャース、ノーマン・フォスター、ニコラス・グリンショウによって、かつてハイテクと呼ばれた人々やエコテクノロジーと再命名された人々である。6

 彼らは、彼らの建築の環境的パフォーマンスを改善しようとするはっきりと明言された意図と、彼らのこれまでの実践とその商業的な成功からかけ離れすぎないようにという暗黙の望みを持っている。したがって、改正モダニズムによって、彼らはこれ以上ないほど成功するだろう。例えば、彼らの材料は、依然として多くの「具体化されたエネルギー」による高機能で工業的に生産された金属やガラスである7。共にベルルンにあるグリムショウのベルセとロジャーズのダイムラークライスラー本社、およびフォスターのスイス保険銀行ロンドン支店は、その代表例である。

 しかし、状況は進化している。ロジャーズのボルドー法廷(1998)は、例外的な木材のパレットを広げている。7つの独立した法廷の各々は、コンクリート基礎の上に集成材の上部構造を有しており、外部は杉のむき出し、内部は合板に覆われている。熱や寒さを伝えにくいだけではなく、大気に炭素を加えないので(輸送と切断以外においては)、木は環境的によい素材である。これは、ロジャーズのボルドー法廷オフィス棟のアルミニウムと屋根の銅の設計を矛盾させるが、しかし実践の範囲内で内部の矛盾が耐えがたくなるには時間を要する。

 化石燃料の消費、建築上の効果、構造上のパフォーマンスのトレードオフがおそらく常に行われるだろう。エコテクノロジーの実際の貢献は、エネルギー効率を最大限にすることや方法論的一貫性とは何ら関係がない。その価値は別のところにある。すなわち、第一に、環境デザインの技術的な覆いを押し分けて進むところに―、改革がその存在理由なので、驚くことはほとんどない―、そして第二に、トロイの木馬の役割を果たすところにある。これらの建築家が、彼らの建築の同一性が環境デザインにより弱められてしまうことを非常に嫌がるのは、独自のスタイルの親交により安心しているが、少なくとも環境保全主義に表面上同意しなければならない強力な営業上また組織上のクライアントを保持することができていることを意味している。 これは決して適切ではないが、再び、行動と意図の間の矛盾が解決の妨げとなるには時間を要する。また、ロジャーズは、少なくとも彼の仕事において環境上の見せかけよりさらに踏み込んでいる。

 対照的に、ロジャーズの元パートナー、レンゾ・ピアノは、ハイテクの目に見えるものを残すことにより、ハイテクと環境保護の実践とのいっそう多くの矛盾を解決した。この転換の例は、ニューカレドニアのカナク人住民のための ジボー・カルチャー・センターである。 敷地とセンターの両方の管理アイデアは、カナク神話に由来していたが、この神話は主に気候と地形学に由来している。センターのまわりをカナクの小道がとり巻いている。この小道はカナク文化生成の5つの段階―農業、居住地、死者の国、霊の世界―を表しており、各々が特別な石、植物および木に緊密に関係している。センターはそれ自体、カナク人の儀式の小道(両側には木々があり、長の小屋で道は終わっている)の組織的アイデアを再現する小道として配置されている。木の代わりに、プログラマティックな機能がセンターの儀式の小道を描いており、「村」を構成する10個の木の「箱」、すなわち小屋を取り囲んでいる。

 ジボー・カルチャー・センターのデザインの特徴である箱は、最初は気候上の理由ではなく文化的理由により着想されたが―カナク人独自の小屋を参考にして―、環境的機能がより効果的に働くように一部変更された。要するに、カナク小屋の円錐形の屋根を模した円錐状の形から、換気のための気流を増加させるために、円錐を半分にカットした形へ発展した。伝統的固有建築様式および現代的アプローチの両方において、戦略は気候であり、太平洋貿易風を利用している。箱はイロコ材製で、水平の曲がったスレートを支えている高さ最高28メートルの集成材要素から成り、スレートとルーバーの内側の板との間で自由に空気循環できるようになっている。ルーバーはコンピュータ操作され、微風が吹くと自動的に全開になり、風速が増すと自動的に閉じ始める設計になっている。風が方向を変えると、換気は建物の正面のずっと下の方で行われ、二重板の上部から空気を出す。 設計は、オブ・アラップとパートナーおよび科学的で技術的な建物の中心(the Centre Scientifique et Technique de Batiment)によって行われた風洞試験とコンピュータ・シミュレーションをもとに開発された。

 結果はカナク人独自の最小の構築された文化を思い出させるデザインであるが、決して模倣しようとしたデザインではない。ピアノは、ごくわずかでもキッチュを思わせるものは断固として避けた。その代わりに、彼はカナク人独自の気候に対する双方向反応を模倣している。受動換気に対して同様の注意を払っているが、全く異なる材料、全く異なるレベルの複雑な技術を用いている。たとえば、集成材柱は鋳鋼基礎に設置されている。これは、コンピュータやルーバーと同じように太平洋を横切り現場へ輸送しなければならなかった。天賦の才がない島に、いかなる大きさ、複雑さの建物を建築するにも常に輸入が必要であるとはいえ、環境原理主義者にとって、この選択は別であった。確かにより大幅な省エネは達成されたであろうが、九分九厘それほどまでに顕著な効果はなかったであろう。特筆すべきは、ピアノが彼以前のハイテク仲間が成し得なかった程に、気候から形状をひらめたというそのやり方であり、その結果、ハイテク仲間の建築が多様でなかったという意味において、彼の建築は多様になった。これは選択である。第一世代現代主義者の中の何人かは―アールト、バラガン、そして時折ル・コルビュジエ―、建築的に―たとえば、ブリーズ・ソレイユで―気候に対応する一方で、国際様式のイディオムの中に留まるというもう一つの方法を選択した。

3:技術的な理由

 環境デザインは要求が厳しい。それは、単に夏は南向きの北半球ファサードを陰にし、冬には北向きの北半球ファサードを防護するというような、単純で直感的に理解できる動きの問題ではない。環境デザインは建物物理学として始まり、建物物理学が環境デザインの終点である。スペースとプログラムが複雑であるほど、その内部およびインテリアとエクステリアの間の両方で起こる物理的な相互作用は複雑である。建物の材料もまた、非常に重要である。 プレイドウ状のコンクリートでは無理である。材料は、直接環境パフォーマンスに影響する全く異なる伝導率および反射率特性を有している。強力な環境ソフトウェアの開発は、従来のエネルギー費用がかかる機械システムの縮小あるいは放棄後に内部環境のコントロールがまだ十分であるかどうかを確かめるために構築されるより以前に、受動的あるいはハイブリッド型の建物の複雑な物理的作用をテストする必要性に駆り立てられている。デザインが大胆であるほど、なお一層このモデリングが必要である。建物を外部へ開放した結果、密閉された建物よりずっと多くの変動に対処しなければならなくなる―日射、風速、湿度、その他の変化。同時に、環境的デザインの建物は、その土地特有の建築(それほどエネルギーに乏しくない建築のためのモデル)よりはるかに高い快適さおよび性能水準を満たさなければならない。

 自然力と建物との間の相互作用のパタンを理解する必要性は、分析を行うのに十分な計算能力に対する需要を生み出した。まだ建設されたていない建物の環境性能をテストすることを可能にするのは、現実をサイバースペースへインポートする我々の能力だけである。エンジニアではなくデザイナーのために作られた「ラジアンス(Radiance)」や「エコテクト(Ecotect)」のようなプログラムは、要求が多いのと同様に刺激を与えている。ラジアンスは、一日中あるいは一年中のいかなる建物のいかなる場所の日光の質および強度を示す「照明シュミレーション・プログラムに物理的に基づいている」。 エコテクトは、「音響、熱、照明、太陽、そしてコストの機能と完全に結合した3Dモデリング・インタフェース」であり、最終設計と同様に理論設計もサポートする。重要なのは、環境デザインが複雑な形やプログラムを除外しないということである。物質文明のリポジショニングは、他のものをシャットダウンしながら新たな実践を開拓している。

4:経済的な理由

 ヨーロッパでは、環境改善は、上から下へ行われる。欧州連合は、立法、指令、経済的インセンティブおよび補助金を混合することにより、環境、建物および自然とのより害の少ない関係へ向けて、その巨体を方向転換しようとしている。アメリカは、少なくとも現在の政権下では、あらゆる手段を尽くして、そのような介在に抵抗している。むしろ、変化の原動力は、従来の問題の元凶、すなわち大企業である。これは、道徳的要請に従うのではなく、最終結論に対する通常の関心からである8。「産業エコロジー」は、あたかも生物学的であるかのように、工業プロセスを扱うことにより、また生産と消費を線形のエントロピー・プロセスから循環的な効率的エネルギー・プロセスへ転換することにより、企業に数百万ドルを節約させることができる。

 自然界に浪費はない。なぜなら、そのすべての「製造プロセス」は、地方の池から地球にいたるまで、あらゆる規模を通じて相互に関連しているからである。ある有機体がもはや必要としないものは、別の有機体によって利用される。生物圏はこれらの関係から構築され、さらに複雑なレベルの関係が下層レベルとの共生関係から出現してくる。産業エコロジーはこの相互関係を模している。不用物は、別の売却可能な商品あるいは交換可能な商品になる。例えば、鋼を生産し、クズを無用の副産物として捨ててしまう代わりに、その不用物は別の企業によって別の工業プロセスに利用される。 (例えば、鉄鋼製造から出る高炉スラグは、コンクリートにセメントの代用として使用することができる。日本では、普通ポルトランドセメント20%に対して、最大80%の高炉セメントを使用している。ヨーロッパでは、構造用鋼は再利用されることが多い。) ある生産サイクルの不用物を別の生産サイクルの原料にすることは、今のところ一般的ではないが、デンマークのカルンドボーグのように、それが試みられているところでは努力が実を結びつつある。カルンドボーグではでは、

 このプロジェクトは、発電所・・・精油所、製薬工場、ウォールボード工場、硫酸生産者、セメント・メーカー、地域農業・・・そしてすぐ隣の家まで網羅している。1980年代の初めに、[発電所]は精製所および製薬工場に超過蒸気を供給し始めた。 さらに、地域暖房システムに廃熱を供給し始め、3,500の石油炉を停止することを可能にした。1991年には、精製所がガス用硫黄の除去を開始し、それを硫酸生産者へ売却した。・・・[発電所]は今、セメント・メーカーにフライアッシュを売却しており、不用な石膏をウォールボード工場へ売却予定で・・・製薬工場から出るスラッジ(沈殿物)は、地方農場の肥料になっている。9

 

環境的実践の多様性を前提として考えると、まだ関与していない人々によって、さらに多様化できないという理由はない。ヨーロッパでは、無関心のままでいるという選択肢はますます少なくなっている。なぜなら、エネルギー効率の必要性がより強く求められるようになってきているだけでなく、企業は、この専門的知識を備えた者が知識を持たない者以上に競争力を持つ市場で張り合っているからである。だからといって、ヨーロッパの誰もが、急いで自らの実践をグレードアップしようとしているのではない。時間と費用がかかるので、多くの企業はむしろ強制されるまで待っているのかもしれない。ポール・ハイエット (英国建築王立研究所所長)は最近サスティナビリテイ建築持続能のための国際連合[the Global Alliance for Building Sustainability]の創立総会で、英国の専門職がなかなかこの新たな実践を組み込まないことを批判した。「私は、競争力がなくなるような義務をメンバーに強要することはできない。 [とは言っても、]誰かがトイレを使用するたびに換気や照明のために化石燃料を燃やすことが必要でしょうか?建物は無知であり、その設計も無知である。」もし単に、クライアントが、低エネルギー・ビルディングは、当初に巨額の資本支出が必要であるが、出費は極めて低い維持費で「払い戻される」と認識し始めているというだけの理由なら、欧州連合の専門家は、十分迅速ではないかもしれないが、活動している。自分の建物へ移動するのであろうと、他のものを自分の建物へ移動させるのであろうと、クライアントはこれをますます重要なこととして認識している。アメリカでは石油は常に安いわけではなく、クライアントは燃料が高価なヨーロッパと同じ方法で対応し始めるだろう。

5:教育的な理由

 

フットワークが遅いという非難に対する答えの中で、設計事務所が実践面の難しさ(実用的援助をもって取り組むべき)を言い訳にできるのなら、建築学校はそのような弁解の余地はない。彼らの任務は、次世代の建築思想家および実行家を育てることである。建築学校は、正当な理由をもって、環境デザインを教える資格をもった者を十分な人数見つけることができないことに不満の意を表すかもしれないが、これは、少なくとも部分的には、彼ら自身が作り出した問題である。環境デザインは30年間存在してきた。

 

通常の程度の惰性を仮定すると、それは失われた20年間の訓練、利用できない熟練した教師および専門家の20年間の価値、その結果としてのはるかに少ない専門知識の蓄えである。さらにこの問題にもっと早く対処できなかったことは、教授法がその初期段階に留まっていることを意味している。 技術的実践、他のどれとも似ていない技術的実践や、概念から構築まで建物プロセスに存在し、巨大な形式上の意味を含むものを建築家に教えることができるだろうか?形式的なものと環境的なものを、いずれかが他方を圧倒することがないように両立させることを、建築を学ぶ生徒に教える最善の方法は何か?たとえば、私が最近まで教えていた建築協会では、長年続いている教育実習と新たな教育実習の両方があった。どちらも完全に満足できるものではないが、各々が、より効果的な統合を成しうる方法を指し示している。長年続いている実習は、AAスクールに見られる大学院環境エネルギープログラムで、17年間ずっと続いている。若い建築家たち(最近資格をとった者、数年間実習した者)は、環境デザインの原則を習得し、テーマに関して自らの方法で考える能力を身につけ、そして何にもまして、最新環境ソフトウェアに精通するために、集中的な一年間を過ごす。コンピュータ分析およびシミュレーションがこのコースの特徴である。これは、ある意味ではよいが―厳密で、具体的で、どの判断が環境的に有利であるかを学生がはっきりと理解することができる―、ある意味では失敗である―学生は新たな実践と彼らが確立した設計方法を組み合わせる時間がない―。

 

AAの主要学部には、DegreeとDiplomaの両レベルで、代替の教授法のアプローチがある。ここでは、ある設計ユニットが、ある環境デザインの形式を、通常形式を作り出すいくつかの同時手段の一つとして自分たちのシラバスに組み込むことを、学部と互いに完全に独立して決定している。週単位の授業―厳密に言えばボトムアップ―に従事している専門家はいないが、建築家にとって、発展しつつある教育のモデルは、前途有望である可能性を秘めている。学生は概念構成を練り上げ(「環境的なもの」になんら無関係であることが多いが)、同時に必知事項に基づいて環境デザインについて研究する。したがって、これらの知的研究は文化的であると同時に環境的で、この両者の掛け合いから最終設計が生まれる。しかし、結果はインプットの性質により制限される。学生は、太陽光発電、葦床浄水、およびリサイクル材料の研究に成功するかもしれないが、経験的観察および最終判断のどちらも試すことができない。学生は、分析力やシュミレーション能力がなく、修士課程で非常に苦労してそれらを身につける。Degree(学部)レベルで始めてDiploma(大学院)レベルで継続していく必要があることは、環境エネルギーと設計ユニットのアプローチのコンビネーションである。

 この教育的分野は、その実践と同様に、革新と実験に対して開放的である。ヨーロッパでは、より環境的なコース内容を求める声が学生間で高まってきており(英国建築王立研究所により強く支持されている要望)、現在では、継続してコア・カリキュラムに組み入れることがすべての学部に義務付けられている。新入生の募集に影響が出始めている。ある学部で求めるものが見つからない学生は別の学部を選択する。すでにある特定の学部に在籍している学生は、環境面で「見解を述べる」ことができない、あるいはそのつもりのない指導教官に対して、ますます批判的になっている。実際、教師の大規模な再教育が行われたケースがある。環境が教育の焦点ではなかったということが、教師の責任だと全く言えないことはないが、彼らの(実践的、概念的)知識の不足は、学部の成功に対する脅威となりつつある。

 道徳的な責務に無関心な人々にとって、転向者たちの独善的な殊勝気によってなお一層抵抗できるものとなり、環境保全主義の枠内で試してみるに値する知的で美的な課題がきっとあるに違いない。現代のアバンギャルドの関心事と環境建築家の関心事は、自然という点で交わっており、この一致点の存在を認めることを両者が拒否することは、制限していることと同じくらい時代遅れである。環境デザインの要件が創造的自由に不吉な脅威をもたらすという考えは、無気力な人々の中に普及しているが、根拠のないことである。「欲しい、欲しい」というおねだりから少し成長した生物圏との関係の枠組みの中で、今制限がある種の制限が必要である。材料の開発には制限がある、というか制限する必要がある。しかし、そのパラメータの範囲内で、我々はエセックス大学の社会学者テッド・ベントンが「限界があるが無制限」と表現した状態の中にいることに気づく。11 制限内で―知的制限ではなく材料の制限内で―新たに組み込まれたものの影響を探究し始めた建築家はほとんどいない。新しいものと無限のものとの関係に妨害されているからだ。なぜ環境デザインが、建築家が直面している他のいかなる制約―予算、クライアントの要求、建築法規―よりも、創造性に対して悲惨な影響を与えるようにとらえられなければならないのかは、未だに謎である。

 逆に、制約は、設計を決定する(恣意的ではなく、「現実」に基礎を置いて)手段として役立てることができる。おそらく、これは環境決定論に対する抵抗―問題の建築に対する、軌道にのせるために必要な時間や費用に関する現実的な不安ではなく、時には明白で、特には潜在意識下の抵抗―の原因の一つである。しかし、自然と文化を溶け込ませることが次第に可能になってきた文化の中で、一体全体、なぜ思慮深い才能のある人々は、依然として莫大な新しい可能性の領域の一端だけに取り組んでいるのか?