海外論文・レビューの紹介(2)

Everything is Architecture

Multiple Hans Hollein and the Art of Crossing Over, by Liane Lefaivre  Harvard Design Magazine, Spring/Summer 2003, Number 18.

すべては建築である-多義的なハンス・ホラインと交差の芸術 リアンヌ・ルフェーヴェル(訳/奥田順二)

“Alles ist Architektur”―「すべては建築である」1。1960年代から出てきたすべての建築宣言のうち、これは最も自由奔放なものである。ある部分は言葉で表現されているが、そのほとんどは絵で表されており、たった1000語未満の単語と90以上のイメージを集めたものであった。この出版物は簡潔で勢いがあり、読者を驚かせることを意図したものであった。実際その通りになった2。時は1968年4月、建築雑誌Bau 3。著者・エディター・アーティスト・建築家・グラフィックデザイナーは、ハンス・ホラインであった。

“Alles”とは、通常、完全な建築物の解体の希求として解釈される4。ルーシー・リパードがより基本的なものを求めて芸術品の非物質化と称したものを、コンセプチュアル・アーティストが主張していた時代に書かれた5。ホラインの宣言は、建築と等価とみなすことができる。彼のアプローチは、コンセプチュアル(概念)建築と呼ばれるものとサイバーアートを結合した。1968年4月、情報化時代はもちろん建築の範囲にも及び始めていたが、デジタル技術はまだ遠く離れた得体の知れない世界のものであった。この分野における新たなメディアの潜在的な役割について思いを巡らせている唯一の人物はクリストファー・アレクサンダーであり、彼は「形態の統合に関する記述」を4年前に出版していた6。しかし、ホラインのアプローチは、アレクサンダーよりも芸術家のアプローチに近かった。

ホラインは、マーシャル・マクルーハンの画期的な「グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成」(1962年)を建築思想へ最も早い段階で導入した一人である。この本は、情報化時代を予告し、それが従来の口頭文化に与える絶大なインパクトを予言しようとした最初の本である7。ホラインの宣言は、第一に、この時代が建築にどのような意味を持つのかということを想像しようという試みである。彼は新しい電子メディアの可能性に魅了された。

この時の彼の計画のひとつは、実のところ、ウィーン大学をテレビセット―今日「遠隔授業」と呼ばれるもののみならず、さらに広く言えばサイバースペースを暗示するもの―に取って代えることであった。機械的再生の時代に反対していたウォルター・ベンジャミンとは対照的に、ホラインは、デジタル再生の時代を受け入れることに熱心であった。楽観主義的な60年代において、彼の宣言は、フィリップ・ジョンソン、ウォルター・グロピウス、エドワード・デゥレルストーン、ミノル・ヤマサキのような保守的で形式主義的な建築家が支配する時代の型にはまった退屈な主流の建築に取って代わろうとする、奇抜な建築上の楽観主義者に初めて対抗するものであった。

しかし、この宣言は、サイバースペースの賞賛を越えるものであった。ホラインは「すべては建築である」と宣言した時、そのつもりであった。すべてを建築化する精神において、彼はそれより2年前にバックミンスター・フラー やシオドア・アドルノといった変わり者で過激な仲間達に、ウィーンの建築シンポジウムに参加するよう依頼した8。“Alles”の中で彼が求めたものは、少なくとも建築的思考の完全なリブート(再起動)、建築の根本的な再分類、建築の定義における閉鎖性の排除、建築とその他の分野における境界の除去、連結の無限のプロセス―ドゥルーズ以前のリゾームの多様性―であった。始まりの一文は、「建築の限られたカテゴリーに属する基礎および建築の定義に縛られ伝統、そしてそれが意味するものは、概して妥当性を失った。」と訳されている。彼の最終節は次のように訳されている。「われわれの時代の真の建築は明らかになりつつあり、真の建築は手段としてそれ自体を再定義しており、また建築分野を拡大している。伝統的な建物を越えた多くの分野が「建築」をまさに建築として引継ぎ、「建築家」はそれまで関係が薄かった分野へ進出している。誰もが建築家である。すべては建築である。」

自由奔放であるにもかかわらず、この宣言は全く独断的なものではなかった。これが奔放であるなら、それはクロード・レヴィ=ストロースの“pensee sauvage”のようなものであった。普通pensee sauvageは「野生の思考」と訳されるが、「自由奔放な思考」をも意味する。この思考には流儀があり、レヴィ=ストロースが「それ自身を異種のレパートリーによって表現する」ブリコラージュと称したものにより特徴づけられる。その効果は、「すでに推測した連想性の根拠を示すことにより展望と理解」を増進することである9。これは“Alles”が用いた論理的思考の一種である。宣言は建築を再分類し、通常建築と関連付けられない事が、突然、予測に反して建築と同等とみなされた。「人工気候室」、「輸送機関」、「衣料品」、「最も広い意味での環境」、「感覚」、「利己的な顧客」、「コミュニティー」、「カルトな建築」、「体熱のコントロール」、「科学の発展」、「シミュレートされた建築」、「縫い合わされた建築」、「膨張する建築」、「触覚」、「視覚」、「聴覚」、「感情のニーズの表現」、そして「軍事上の戦略」さえも。ホラインは系統的で学術的な仕事に着手し、これらの広範で共通点のない要素の統合を論理的に議論することを選択した。さらに言えば、彼は慎重に断片的な方法、あたかもマクルーハン、バケマ、フラー、ティモシーラリー、ゴットフリド・ゼムパー、フリードリヒ・ニーチェ、レウバーバンハムの連携によって書かれたかのような方法で、これらを一つにまとめることを選択した。

ホラインは彼が語ったのと同じ種類のブリコラージュで“Alles”の写真を集めた。方法は単純で、通常建築とはみなされない一連の要素を取り上げ、「これは建築です」と各々の下にメッセージをつけた。しかし、それは単純さが行き着くところであった。その結果としての再分類は、文書にしたものと同様に不調和なものであった。ある一つのイメージは錠剤であった。錠剤=建築?明らかに意味的にねじれていた。また別のイメージはスプレー缶であった。それからリップスティックの新しいスティック。次はセルゲイ・エンゼンシュテイン、元建築家で大量虐殺の生存者であるナチ・ハンターのサイモン・ヴィセンタール、ファッションデザイナーのパコ・ラバンヌ、チュ・ゲバラらの写真。製油所としてのリンドン・ジョンソンの顔の風刺画があった。スイスの芸術家ジーン・チングリーとともに彼女の仰向けになった巨大でポップな彫刻の陰門から歩き去るフランス系アメリカ人の画家ニキ・ド・サン・ファール。ジャイプルの観測所。トム・ウェッセルマンの「巨大なアメリカ人の裸体像」。ドイツ人の画家で建築家のフンダーベッサーの裸体像。ブラジャー。サングラス。1965年に宇宙船マリナーIVが火星から送ったデジタル化メッセージのコンピュータ出力。宇宙空間でカプセルの中にいる数人の宇宙飛行士。クラエス・オルデンバーグの「大きなスクリュードライバー」。A・マグリットのベッドに横たわる大きな櫛の絵画。握りしめた拳。シャボン玉。一本のハサミ。建築の定義はこれらの物を含むまで拡大することは決してなかった。また、建築は同世代の文化の最も敏感な要素―この場合は、セクシュアリティ、反乱、刹那性、暴力、未来派、非抑制、ヒッピー、独創性、大胆不敵、政治風刺―に広がることもなかった。

最も自由奔放なイメージは、ホライン自身によるコラージュであった。このコラージュは、彼が「トランスフォーメーション」と称した芸術作品のグループに属するものであった。Bauのこの号の表紙はホラインのコラージュで、ゴシックとバロックの記念碑で飾られた、繊細で精巧に精製したウィーンの都市の金銀線細工をほれぼれと眺める、厚い一枚のエーメンタールチーズの形をしている戦後の現代主義者の記念碑である。内側には、メガロポリスの建物に見えるように誇張されたいくつかの岩のもう一つのコラージュがある。一つのイメージである「景観の中の高層ビル」は、丘の上の巨大な点火プラグの特徴を描いている。また別のイメージは、金メッキのバロック式のソファで手足を伸ばし、頭を持ち上げ、クライスラー・タワー、パラシュート、タクシー、馬の上のカウボーイ、空に浮かぶ微笑む唇などエロティックな空想に笑う60年代のポップなヌードである。

けれども、総体化は建築において長い歴史を持っている。この多様性の探求を注視する別の方法は、多様な知性の要求の結果として、ハッワード・ワーグナーの言葉を用いれば、世界自体の多様な現実の対処の必要性として感じられる10。

ウィトルウィウスは、4世紀に建築を哲学、音楽、天文学、数学、光学、歴史、医学等の分野とハイブリッド化した包括的な論文「建築十書(De Architectura)」を記し、建築に対するこのようなアプローチの最初の提唱者であった11。アルベルティは別であった。彼のDe Re Aedificatoria および、特にHypnerotomachia Poliphiliは、芸術的な分野(文学、絵画、彫刻)に、ウィトルウィウスにとって想像不可能な範囲にまで建築を導いた12。建築の歴史は、それ以来、建築を他の分野への交差を通じて再分類しようとする同様の大胆な試みによって中断されたままである。19世紀と20世紀の交差は、英国のアーツアンドクラフト運動、オランダ人H.Th.ワイデフェルド(雑誌ヴェンディンゲンを発行)、グラセン・ケッテ(20世紀初頭のバウハウスの前任者)、ドイツ工作連盟、バウハウスらによって試みられた。「すべては建築である」というフレーズは、実のところ、最も自由奔放な建築思想家の一人であるル・コルビジェが最初に口にした。ホラインは、前にあったのは18世紀初頭のウィーンの建築家ジョアン・バーナード・フィッシャー・フォン・エルラッハであると主張している。

最初に公表されたフォン・エルラッハの歴史書は「Entwurf einer historischen Architektur(歴史的な建築の概要)」であるが、これは、ストーンヘイジ、トルコのモスク、中国の仏塔、シャムの宮殿を含めるために建築の基準を拡張した13。ホラインは、総体化において、芸術と建築に生産の新しい産業手段を統合する明示的なプログラムを備えた19世紀後期から20世紀初頭にかけてのウィーンのゼツェッシオン運動に受け入れられた、学際的な総合芸術作品洋式の継承者の一人でもある14。

しかし、ホラインの総体化の概念は、60年代の思潮に負うところが大きい。確かに、彼の総合化のプロジェクトは、学校、雑誌、60年代の終わりに向かって建築学校からしばらくの間一掃された実践における学際性に共鳴している。15“Alles ist Architektur(すべては建築である)”は、50年代の狭義の順応性に対するこの10年間の反体制文化が染み込んでいる。もっと地味なものであろうと―ドゥボールや状況主義者、フランスのグループ・ユートピア、カリフォルニアのヘルベルト・マルクーゼのように―、もっと大胆でポップなものであろうと―英国のアーキグラム、イタリアのアーキズーム、日本のメタボリズムのように―、基本的アプローチは同じであった。ホライン自身の抵抗は、芸術と科学のすべての分野における同様の発展と類似するものであった。ホラインが「すべては建築である」を書いたと同じ時期に、ジョセフ・ビューイは「すべては芸術である」と、ジョン・ケージは「すべては音楽である」と主張していた。16

エッセイやブリコラージュの総体化のアプローチである“Alles”は、ホラインによるこのような多くの試みの一つにすぎなかった。これは、1965年にウィーンで共同発刊し、1971年に終刊するまで共同編集した建築雑誌Bauの中で実行された一般的な戦略の結果であった。Bauは、その短い刊行期間中に、幾度かの大成功を収めた。ヨーロッパだけでなく、出身地であるウィーンでもまったく無名であった建築家ルドルフ・シンドラーの作品を発表した最初のヨーロッパの雑誌であった。ホラインは、最初イリノイ工科大学在留中に、のちにカリフォルニア大学バークレー校在留中にシンドラーを見出し、彼をハークネスの共同研究(1959~1960年)の中心とした。Bauは、ヴィットゲンシュタイン・ハウスを公表した最初の建築雑誌であった。ホラインと編集部の他のメンバーはヴィットゲンシュタイン・ハウスの設計者を確認すること、そしてすでに敷地内にいる解体作業員の手から建物を守ることに直接の責任を負っていた17。Bauは、フレデリック・キーサーおよびアメリカのジョセフ・ホフマンによる公表されていない家についての記事を最初に掲載したウィーンの雑誌であった。Bauは、ヨーロッパの建築雑誌の中で、最初にコンスタンティン・メルニコフを公表しようとしていたが、その記事が印刷される前に終刊した。

Bauは、ホラインが建築思考実験―ハイテク好き、ポップアーティスト、宇宙時代、夢想家、ニーチェ主義者で「ツアラツウストラはかく語りき」的な神秘家、ロマンティックな地方主義者、超現実主義者、史跡保護主義者、そしてライト好きの有機論者として次々に変化していく―に取り組む研究所として役立った。ホラインの言説と写真エッセイはともに、“Alles ist Architektur(すべては建築である)”の精神と写真コラージュを予示している。創刊号の表紙は、9つの無関係なイメージのコレクションである。ロイ・リクテンスタインの「ワーム」、ベラッターノブリッジ、ホラインのデザインによる巨大な貨物列車の形をした記念碑、ウォルター・ピッヒラーによる地下都市のデザイン、ギザのピラミッド、バケマとファン・デル・ブロークによるデルフト工科大学の講堂。中をめくると、ロン・ヘロンの「ウォーキング・シティ」、その隣にはホライン自身のコラージュ「ランドスケープの中の航空母艦」、Life誌からの空想の宇宙ステーションのイラストがある。このポップ、ハイテク、ロシア構成主義、デ・スティール、カルト、オランダのチーム・テンの結合に、ホラインは論説「建築の未来」を添えている。その中で彼は、「同時代の都市、同時代の環境」の現実を受け入れた「スペース・プラスティック」な建築、「あらゆる人間関係、功績、感情と情熱の表現」である建築、を提唱している18。

完全な機械化世代のホラインは、第2号の表紙に「別の世界観の大聖堂」というタイトルをつけてケープカナベラルの発射台を載せ、同時代の建築に組み込むことで機械の美学を主張している。なぜなら、それは、彼が述べているように「造形的で、動的で、表現的で、形式的で、情的な可能性」を持っていたからである19。この号で、さらに、ホラインは、彼が考えていた機械時代的な建築の写真を集めて視覚的なエッセイを書き上げている。ケープケネディーのロケット組立工場、ローリー空軍基地、クロケットの高速道路のインターチェンジ、カリフォルニア、プエルトリコの電波望遠鏡、マチュピチュ近くのインカ人の円形劇場および米航空母艦エンタープライズ。

さらに4号後に、構成主義者のホラインは、人間の内耳の曲がった部分の横断面を表紙に載せ20、19世紀初頭ウィーンのトーネットの椅子について、工業的機械時代の大量生産品であり有機的な形であると称して賞賛している21。ロマンチストのホラインは、J.B.ジャクソンのように南西部に夢中になり、ポップなホラインは、レイナー・バンハムやトム・ウルフのように大衆文化に興奮するようになる。この両方のホラインが1965年の号「バックグラウンドUSA」で一体になる22。

この号には、初期のコンピュータをいっぱいに並べた部屋、グランドキャニオン、馬の背に乗ったホピー族、フランク・ロイド・ライトによるユニティ・テンプル、ル・コルビジェのカーペンターセンター、ルイス・カーンとフランク・ロイド・ライトの肖像、カーンのメディカルリサーチ・ビルディング、バンハムとルートのモナドノック・ビルディング、ナイアガラの滝の前のマリリン・モンロー、ラスベガスからのハイウェー広告、ミース・ファン・デル・ローエの肖像を並べた写真エッセイが掲載されている。そして、総体化しているホラインは、自意識過剰になってくる。「精神的な、魔法のような、エロティックな、協力的な、自立的な、問題解決的な、整然とした、抽象的な、性的な、神聖な、構造的な、四次元的な、汚れた、傾斜した、造形的な」その他の普通矛盾したものの中で、1963年に“Zuruck zur Arcgutejtyr(建築への回帰)”を書き、建築はこうあらねばならないと主張している23。

しかし、ホラインの建築の総体化の傾向は、Bauの時代よりも以前にさかのぼる。1959年の秋から1960年の春にまとめたバークレーの修士論文「プラスティックスペース」(戦後の歴史全体の自由奔放な思考の最も根源的な―無名な―例の一つ)の中で、形作られ始めている24。ホラインは、アメリカを巡っている間にバークレー校を修了し、学際的なものの重要人物であるウィリアム・ブルスターに出会った。彼は、マンフォード主義の地方主義者で、カリフォルニア大学バークレー校環境デザイン学部の学部長で創設者でもあり、この学部をアメリカの地方主義の建築学校(教員には主要な地方主義者のジョセフ・エシュリックやJ.B.ジャクソンがいた)の一つに転身させることに責任を負っていた。ブルスターはホラインに留まるよう求めた25。8年後の“Alles”の宣言よりも更に多様なものを包括した論文は、ジョセフ・エシュリックに指導されたもので、「空間の全体性」、「宇宙―世界―ランドスケープ―地方―都市―住居―室―家具―道具」を扱っていた。ちょうど4年後に「ウォーキング・シティ」等のプロジェクトを行ったアーキグラムのように、ホラインは工業デザインから天文物理学に至るまですべてのものを集めていた。将来の総体化を自ら予見するように、ホラインは「すべてのものは」「建築の手段」とみなすことができ、「特別な建築材料もなければ、建築用の材料というものもない」とさえ述べている。

彼が後に述べているように、彼の論文はコラージュであった。部分的に言葉から成るもので、自由詩―哀歌調で、憤慨しているような、神話形成的な―と具象詩のコンビネーションによって書かれている。“Alles”のように、それは絵入りのエッセイで、焼成粘土および非焼成粘土で作られた約20の建築模型のコラージュと写真に加えて、ホライン自身のスケッチ、水彩画、墨で描かれた絵から成るコラージュである。

しかし、“Alles”と異なり、「プラスティックスペース」もまた「組み立てられた」エッセイであり、論文のこの部分は、文字で書かれた部分とほとんど同じく総体化されていた。

それは、ホライン自身によって組み立てられており、「空間の中の空間の中の空間」と称された。木、金属メッシュ、溶接された金属、および/または石膏でできた10の構造からできており、高さが16フィートになるものもあり、実際に中にはいることができるものもあった。プロジェクトはそこで終わらなかった。デザインの決定的要素は、構造に囲まれた空間(むしろ、構造により生み出された空間)で、分離されたオブジェクトとしてではなく、ホラインが「スペース・ラディエーター」と称するもの―見る者は構造によって生み出された約2000平方フィートの空間を歩きたくなるような―として考え出されたものである。彼の「プラスティック」という用語の使用法は、彫刻を意味するドイツ語Plastikの使用法と一致している。ここでは、空間は、その中のオブジェクト、すなわち「不明瞭な3次元の中に限定された活性化した地域」としての彫刻的な要素と同じくらい使われている。

プロジェクトは、その「範囲」においてだけではなく、その構成原理においても総体化していた。概念的また形式的に、その構造は、墨で書かれた漢字の初期の一連のドローイングスタイルの彫刻的で、建築的で、都市計画的な形へ変容した。最終結果は、三次元の表意文字である。もっと正確に言えば、ホラインが書いているように、「四次元」の表意文字である。なぜなら見物人が通り過ぎるのに時間を要するからである。表意文字のドローイングは、必ず紙を囲んだ空間を含んでいる。彫刻的なオブジェクトとして、表意文字は構成の周囲の空間を作る。建築家は、普通そのような方法は考えない。画家、時には彫刻家がそのような方法を考える。

ホラインは、Gebildeという用語を絵画、彫刻、建築、都市そしてランドスケープのことを話すために使った。最も近い英訳は、“whatever(何でも)”(文字通り「3次元のイメージ」)であろう。「Gebildeという用語をこれらの物を話すために使用した理由は、建築と彫刻の間には境界がないと考えているからである。・・・・私はこれらの物を『建築』や『彫刻』と呼びたくなかった。私はもっと一般的な用語がほしかった。・・・・ほとんどの建築家は、建築のイメージを他の建築から得る。私は、これは間違ったプロセスだと考えた。つまり、それは教育の一部であるべきであるが、・・・・画家は・・・・作品のアイデアを古い絵画を学ぶことによってのみ得るのではない。彼らは突然、経験あるいは事実に直面し、前例のないことが生じる。」28実にGebildeは、建築についての大胆な新しい考え方を可能にした。

60年代のホラインの絶え間ない変容について注目すべきことは、いかに機敏に、そして早期に、多くの分割されたものを交差させたかという点である。「ウォール街のロールスロイス・グリル」(1963年)、「ランドスケープの中の航空母艦」(1964年)、「ランドスケープの中の点火プラグ」(1964年)といった彼のポップ・コラージュは、クラエス・オルデンバーグのものに先行する。彼は、1966年に芸術に空気圧構造を組み入れた革新者の一人であった。テレビの形をしたテレマティックスな大学の(Telematic University)建物は、材料として建築を用いた最初のコンセプチュアル・アートの一つであった。ホラインは、まさに環境芸術のごく初期の実践者であった。1950年代後期のアメリカ南西部における未舗装道路の風景の写真、および1964年の田園詩的な風景の中の鉄道が目印となるオーストリアの風景の写真は「サイト」29と呼ばれており、この「サイト」は、一般に最も初期の環境芸術と考えられているもの、たとえばデニス・オープンハイムの「サイトマーカー8」(1967年)、ロバート・スミッソンの「空港地図」(1967年)および「ニュージャージー、ニューヨーク」(1967年)、リチャードロングの「歩くことでできた線」(1967年)より以前のものである30。

ホラインの全作品はコラージュであった。このことが、多くの根本的に異なるグループ、学派、運動が長年にわたり彼を受け入れてきた理由である。ベイ・リージョン・スクールの有名な二人の創立者、ウィリアム・ブルスターとジョセフ・エシュリックは、バークレー校で一緒に修士論文に取り組むよう熱心に彼を勧誘した。ジャプ・バケマは、チーム・テンに彼を参加させたかった。レニー・バンハムは、1968年のアスペンデザイン会議で、ホライン、フランシス・ダルグレー、ピーター・クックを表現するのに「幻想の建築家」というフレーズを用いた。そしてすでに、1966年6月にセドリック・プライズにより組織された英国のフォルクストン国際実験建築会談にホラインを招待していた。そこには、フランスの建築家アイオネル・シェイン(彼はプラスティックの家をデザインしていた)、アーサー・クアンブリー(英国のアースシェルター構造の先駆者)、ポール・ビリリオ、アーキグラム、ハンガリー系フランス人建築家のヨナフリードマン、フューラー、フライ・オットー、そしてメタボリスト達がいた31。ポストモダニズムが到来したとき、ホラインのウィーンにあるハース・ハウスは主な象徴の一つとなった。彼がザルツブルグでグッゲンハイムのプロジェクトを完成させたとき、サスティナブル(環境維持)建築としてグリーンに賞賛された。さらに、記憶に新しいところでは、彼は建築を越えて芸術に交差し再び戻ってくることに成功し、分割された両面(建築と芸術)で対等な仲間たち(建築家と芸術家)に芸術家として、また建築家として認められている唯一の人物である。さらに言えば、彼はブリッカー賞を受賞した唯一の芸術家であり、現代美術館とポンピドーの両方のコレクションに作品がおさめられている唯一の建築家である。

ハンス・ホラインに敬意を表さねばならない。彼は多彩で知的な60年代の時代思潮の恩恵を受けたかも知れないが、同じやり方で(恩恵を与える形で)借りを返したのだ。