2023 August in Tokyo
質問者:セカンドオピニオンはどのような業務なのか教えてください。
奥田:設計が進んでいて別に意見を求められることをそう称しています。病院設計なので医療者は(同じ言葉を医療分野でも使うので)理解しやすいようですね。
質問者:どのくらいの例があるのですか?
奥田:ここ20数年で4例です。
参照 コンサルティング→セカンドオピニオン質問者:どのようなきっかけだったのですか?
奥田:一番目の仕事は私の浦辺時代の先輩西井美彦氏(故人)のところに来た話です。組織設計が入っている仕事を別の組織には出せなかったのでしょう。西井さんは当時個人事務所を立ち上げた後で、倉敷中央病院設計の経験があったから選ばれたと聞いています。私は西井さんに呼ばれただけです。
質問者:その他はどうだったのですか?
奥田:二番目は最初の仕事と同じ県の別の病院でした。また循環器病センターの増築であり、倉敷中央病院心臓病センター増築をスタッフとしてまとめたことも大きかったのでしょう。ドクター間のつながりもありますからね。
三番目は二番目の病院におられた医師が院長として赴任する予定の病院でした。丁度計画中だったので相談に乗りました。
四番目は今も継続中です。実際のセカンドオピニオンの作業を行ったのは2019年です。40年以上前ですが1979年現病院設計時のスタッフでした。就職して最初の仕事です。その後1995~99年に増築棟の設計監理をスタッフとしてやっています。その後2010年頃に将来計画の時にも呼ばれましたが立ち消えになっています。
質問者:それぞれどのような内容だったのでしょうか?
奥田:一番目は「より高みを目指した」という感じでした。60,000㎡超の大型病院でしたが「病棟はいいが低層部がまとまっていないので別提案が欲しい」と言われました。低層部といっても中央診療部門、供給部門、外来部門などすべてで全体の6割超のボリュームがあります。提案は「帯状の大空間を設けて中央診療・供給と外来を分割する」というシンプルなものでした。これは西井氏の提案で倉敷中央病院の中央に「温室」を持つ構成が頭にあったのでしょう。私は具体的なプランニングをそのあと行ったという感じでしょうか。
二番目は当初はささやかな問合せでした。「病棟中央に吹抜があり法規的にやむを得ないと言われたが本当か」というものでした。「自然排煙※1にすればそうですが、機械排煙※2にすれば吹抜はなくなります」と回答しました。その後「具体的に提案してもらえないか」と言われ全体のプランを提案しました。
三番目からはコストの話が混じりだします。30,000㎡の新築民間病院でした。「設計事務所から出されたプランは各室の有効面積が小さいように思う、また低コスト希望なので納まるのか」というものでした。こちらは全体のプランを新たに提案しました。
四番目はコストがメインになりました。某事務所の設計が不調(工事が落札しなかった)になったのです。図面を見たところコストを下げるにはプラン変更せざるを得ないと考え、全面的に変更しました。
2019年6月中におおよそのプランを作成し、各部門の了解を得るのに半年かけ、2020年1月に基本構想をまとめました。この基本構想により次の設計発注を行いました。
※1自然排煙・※2機械排煙:建築は火災が発生した前提で計画する。煙は窓を開けて外に出す(=自然排煙)、機械的に排煙する(=機械排煙)に大きく分かれる。
質問者:4番目についてもう少し詳しく教えてください。面積を減らすことで発注者側の抵抗はなかったのですか?:
奥田:全体で約12%の面積減を行いました。病院ではnet面積(部門が占有して使用する面積)とgross面積(廊下・階段・エレベータ・WC等の共有部門を加えた面積)に分けて考えますが、病棟を除く各部門のnet面積は各部門共98~100%を確保しました。手術部門・入退院センターなどは元案より広げています。病室面積の合計も10%増やしています。また病棟は1フロア2看護単位全個室で36+36床、3200㎡なので何とかバランスの取れたものとなっています。
質問者:どうしてそういうことができるのでしょうか?
奥田:通路を短くし種類を減らしたのです。病院特有の清潔管理上区分された通路を最低限にして、あいまいな作業領域に係わる部分などは徹底して減らしました。また各所にあった専用エレベータは中央エレベータに吸収し周辺廊下も含めて面積減としました。
元案は階段を内部に取り込み、屋外階段を外に出さないようにしていました。オフィスビルのような形態にしたかったのでしょうね。これは廊下の総延長がかなり長くなります。またプランの問題として地下にスロープを設けました。病院における人・物の流れを考えれば必須です。ただこれは逆にコストアップになりました。
質問者:設計上の制約はなかったのでしょうか?
奥田:申請が先に出ていたので、建築のボリュームを元案以下にするという大きな制約がありました。別の病棟型の選択もできませんでしたし、棟の配置も大きく変えることができませんでした。面積を削減したので何とかなりましたが。
質問者:他に減額の要素はあったのでしょうか?
奥田:設備が大きいですね。システムを全面的に見直しました。元設計では熱源設備を工事費に含めていなかったのですが取り込みました。建築と設備の工事費バランスは55%:45%です。バランスが取れた結果になったと思います。
また小規模な吹抜やバルコニーなど面積に含まれないが実際には費用のかかる部分も徹底してなくしました。
質問者:コストに関してもっとも重要だったのは何ですか?
奥田:コストコントロールにおいてプランニングと設備は最重要です。出来上がったものの減額を考えてもコントロールに限界はあります。面積縮小は最も効果的です。とにかく合理的なプラン・設備を作ることでしょう。
質問者:4番目は現在も作業を行っておられるようですが?
奥田:はい。ここまで首を突っ込んだことは他にはありません。落札した時点で離れようとしたのですが・・・。プランはいいのですが、新しい設計では設備が納まっていない箇所が多々ある。他に設計の落ちも多いし、工事中のコストコントロールは不可避だと考えました。また予算的に最低限にしたためデザイン的にどうしても復活したい箇所がありました。この規模で吹抜が全くない建築は寂しいですしね。
質問者:4番目の元の設計発注に関して何が問題だったのでしょうか?
奥田:すべて設計者の問題です。ただ発注者側の設計行為に対する認識が甘かったのは否定できないでしょう。病院設計は服を選ぶのとは違う。どのような医療をそこで行うのかがまず根底にあるべきで、それを実現するのにどのようなハード(=施設)が必要なのか考える。そのためには時間をかけ院内で合意を形成していく過程が必要だということです。
言い換えれば示されたものから選ぶのではなく、自ら考えていくということです。ここには建築の設計は大規模設計事務所に任せておけばいい、という考えがあるのでしょう。これは間違いです(笑)。設計を受注するまでは全力でしょうが、受注してしまえばあとは最小限の力で進めようとするのが設計会社側の論理です。
質問者:設計事務所の問題なのでしょうか?
奥田:そうです。ただこれまでコンペやプロポでしか設計が選ばれてこなかったというのが問題です。本来構想の初期から加わるべき内容なのですから。設計事務所が目新しいプランや外観にのみ興味が行ってしまうのはある意味設計発注の問題かもしれません。
質問者:設計事務所にコメントするとすれば?
奥田:ある発注側組織の技術者が「今の設計事務所は自分のやりたいことだけを提案してくる」と話しておられたのが印象的です。病院が求めるものと設計が乖離してしまっていますね。発注者の方を向いた設計が必要です。また建築計画分野で長年積み上げてきたことを無にするような案は出さないで欲しい(笑)。
質問者:セカンドオピニオンで経験された以外の問題はありますか?
奥田:意見を曲げない設計事務所もよく話題になります。こちらは建築計画的・技術的に正しいのですが、「これしかできません。こんなものです。」と言う事務所があります。確かにそうなのですが設計者がいうべきではありませんね。だって発注者が望んでいることと違うわけですからね。説明の努力をすべきでしょう。この事務所は40年間態度が変わりませんが(笑)。
質問者:設計の発注方法はどうするのがいいのでしょうか?
奥田:大きくコンペ(ティション=設計競技)とプロポ(―ザル=提案)があります。コンペは案を、プロポは人を選ぶといわれますがコンペには対価・報酬が必要です。最近は簡単な計画案+実績で出されることが多いように思います。
ただ実績が評価対象となると、選ぶ側はどうしてもそれに引っ張られます。選ばざるを得ない状況になってしまいます。これも硬直化の一因ですね。先に言ったように、示された案を選ぶというのが病院にとっていいのか考えるべきでしょう。
質問者:今後病院設計はどのように変わっていくと思われますか?
奥田:施設コンセプトを提案する職種が本格的になっていくのではないでしょうか。病院の望む医療を建築化しプランを作る作業です。設計に求められるものは多様化していくでしょうし、作業は分業化していくでしょう。多様化・分業化していくからこそ統一的な意思で全体をまとめる職種は必要になるはずです。
参照 コンサルティング→施設管理コンサルティングとは質問者:設計事務所の役割も変わっていきますか?
現在では医療機器のレイアウトや調整は機器コンサルがやります。これはかって設計事務所がやっていたことで、昔の建築設計資料集成には手術別の機器レイアウトが載っていたものです。ただこれは建築の前提であっても業務そのものではないでしょう。これらは省かれて、設計事務所はよりハードな方向に係わるようになっていくのではないでしょうか。
2023 August in Tokyo
質問者:病院を始めたきっかけは何だったのですか?
奥田:大学院入学の時です。「病院をやると言うと入りやすい」という噂がありました。私の恩師池田有隣先生(故人)は病院と景観の二本立てで研究を進めておられたのですが、景観関連の委託研究が入って人手が足らないはずだ、というものでした。もちろん病院のように機能が複雑な建築に興味はありましたが。本当に修士課程の二年間は病院と景観にどっぷりつかりました。
質問者:大学院はどうでしたか?
奥田:大学は入試にデッサンがあり、通常の設計課題もすべて水彩画パース(透視図)を求められるという「デザイン職人養成学校」的な色彩が強い学校でした。建築計画学は建築を客観化・定量化する分野とも言え、感性が重要なデザインの世界とは全く逆の世界のように感じました。
質問者:その後浦辺建築事務所に行かれたのですね?
奥田:はい。辻野純徳氏が病院をまとめておられたのですが、池田先生からは辻野さんのように「プランニングもデザインもできる人を目指せ」と言われました。西井美彦氏(故人)、石田允宣氏(故人)には病院設計の実務を一から教えてもらいました。結局4年半しかいなかったのですが濃密な時間でした。
質問者富山(県立中央病院)はその後ですか?:
奥田:佐藤総合計画に移って半年後のコンペでした。やり切った感はありましたが当選するとは思っていませんでした。会社はもっと思っていなかったでしょうが(笑)。
※1987年コンペ、1988年~設計、1992年1期完成、1995年2期完成
質問者:竣工以降もかかわっておられたのですね?
奥田:竣工後すぐに総合周産期センターの制度変更があり一部改修を行っています。その後も改修や増築の話があり関わっています。最近10年ほどは機能強化に加え劣化改修と小規模修繕の対応も行っています。現段階でコンペから36年関わったことになります。 長くやってきたことは倉敷中央病院で辻野さん達がやっていたことが頭にあったのでしょうね。施設の維持管理においても設計者的な視点は必要と思います。
質問者:学位を取られているのですね?珍しいと思いますがどういう経緯でしたか?
奥田:きっかけは大学同期との飲み会でした。大学に残っている奴がいて「学位をとれ」と薦められました。もちろん断ったのですが、思いなおし池田先生に手紙を書きました。設計者として論文を書くことを前提に見てもらうことになりました。富山が終わって6年位経った時期で、何か形にまとめたいという気持ちが強くあったのでしょうね。
質問者:やってみてどうでしたか?
奥田:やってきたことを整理できた、というのが大きいですね。またテーマの一つが病院の規模論でした。例えば病棟面積が全体に占めるバランスやまた規模を決める要因、また手術部門では手術件数や人員配置などの要因を整理しました。実はこの辺りの知識がないとセカンドオピニオンはできないと思っています。数値や成立の根拠を示さないと「私はこう思う」では誰も話を聞いてくれませんから。
質問者:佐藤総合計画退社後は富山以外に何をやられてきましたか?
奥田:辻野さんや西井さんに10年以上お世話になりました。中でもやはり倉敷(中央病院)は大きいですね。浦辺時代以来10年以上間を開けて行ったのですが、発注者と設計者の関係を改めて教えられました。
セカンドオピニオンでもそうですが、設計者は一般に発注者への説明が足りないのです。なぜそういう設計になるのか理由や根拠を示さないからです。
また最も印象に残っているのは「工事費の高い設計をする事務所は帰ってくれ」という言葉でしょう。発注者の正直な意見だと思っています。
質問者:これからも富山は続けられるのですね?
奥田:いいえ富山は一区切りです。現在病棟の再構成を行っているのですが、これが終われば修繕を除き10~15年ひたすら現在の施設を使い続けます。病院の機能的な寿命が40~45年とすればちょうどその時期に当たります。増築や建替えの話が出れば別ですが。
質問者:これから病院はどのようなことが課題になりますか?
奥田:病院として「どのような医療を提供するのか」は永遠のテーマなのでしょう。まず直面するのは人口の変動でしょう。私がかかわってきた病院のすべてがこのことを考えていると言っても言い過ぎではない、ある病院など団塊世代が過ぎれば病床数を半分にすると言っているところもある位です。また病院そのものの再編成もあるかも分かりません。
※病院設計が話題のためエピソードを語れなかった先生方がいる。以下に挙げる。
古山正雄先生。私の大学院生当時、池田研究室助手で後年学長になられた。ご専門は都市計画・建築論。デザイン学校的な校風の中で、建築が知的所産であることを教えてもらった。
また学位のおりに池田先生から「あとは大学で見てもらえ」と言われ、当時教授だった先生に話をつないでもらい主査になって頂いた。最初にまず論文を読み漁ったのだが「最近の論文は重箱の隅を突く話題で、切り口が鮮やかかどうかを競っているように見える」といった私の意見に「研究とはそういうものです。」と明快な返答があった。
浦辺鎮太郎先生(故人)。私が事務所に入った時は会長で第一線をひかれた直後だった。
・入社早々コンペの案をまとめるよう指示があった。会長から出てきたのは掌に入るほどの小さな平面とカレンダーの裏に書かれた大きな矩計図だった。後日佐藤総合計画でその話をしたときに、古株の一人から佐藤武夫先生も掌に入るほどの小さな平面だったと聞いた。
・新入生の時に昼食に一人ずつ連れてもらい、一対一で話を伺う機会を設けてもらった。なかでも「三笑」は特に印象に残っている。中国の古い絵で老人が三人泉のほとりで笑っているが、発注者、設計者、施工者をなぞらえている。三者の関係が均等で皆笑っている。関西風コンセンサス主義と言えばそれまでなのだが、現状の仕事を見ているとこんなことが実現できていないことに驚く。
岡田新一先生(故人)。当時は所長と呼んでいた。
・徳島県立図書館で設計担当をさせていただいた。私は京都・徳島で作業をしていたため、徳島空港で朝食をとりながら短時間打合せをするのが常であった。ルーズリーフに斜めの線が引かれ、「傾斜地がある。その中腹に廃墟がある。その上に水晶質のものが置かれている。」と説明があった。なぜ廃墟かと聞くと「この前エジプトに旅行に行ったから」ということだった。その図書館はそれで設計を進め現在も建っている。
・他の仕事では施工図も見ておられた。横で見ていると、めくり続ける図面の中ではたと止まることがある。どうしてそこで止まるのですかと聞くと「図面が呼ぶ」と答えられた。
・事務所を辞める頃だが出張帰りに京都で途中下車され、駅前のホテルで食事をしながら慰留された。個人都合で京都を離れることができず大変申し訳ないと思う反面、来ていただいたことは以降私のひそかな自慢になった。